葉山野町の空手道団体21世紀世界の青少年の育成 

空緑ヶ丘高校空手道部OG会

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緑ヶ丘女子中学高等学校空手道部

創立時顧問 平泉忠廣
現在顧問 岸名隆一
谷川二郎 秋本龍美 金子宜史  平泉忠廣

自慢するわけではないが神奈川県の女子の高等学校で空手道部が存在するのは横須賀にある緑ヶ丘女子高等学校だけであり創部以来30年間存在している。

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          山田(青木)貴子 いろんな大会で長女 萌子ちゃんが優勝しています。

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南井(鎌田)は今 葉山で長女・次女と一緒に練習を始めました。

野添

野添ともえ 葉山で練習と指導に励んでいます。

 昭和50年頃、山手学院・横須賀学院などより県高校空手道大会参加の要請があって、空手道部結成の催促があったが部結成は夢であった。当時部員の多かった新体操部員を空手道大会にと考えたりもしたが徒労に終わる。そんな時、意外なことが起きた。
 昭和53年の文化祭で、大明寺クラブで空手道を習っていた川島美恵子という生徒が「空手演武をおこなうので試割の板を持っていて欲しい」と平泉忠廣教諭が頼まれた。偶然にも空手道着を持っていたので試割を手伝い、川島はセーパイ、平泉教諭は観空大を演武した。これが空手道部結成の切っ掛けとなった。理科部と茶道部の生徒の数人ー佐々木文子・志賀峰子・杉山真奈美・高橋美由紀・山部薫ーが結成に動きだした。 翌年に空手道同好会が結成した。この時に同じグループで結成されたのがバトン部である。バトン部は全日本空手道大会を始め市大会など空手関係に協力している。川島は卒業していたが大矢部道場に入門し市大会・県大会などに出場して活躍する。
 職員会議で結成に積極的に支持してくれたのは、教頭の谷川教諭や秋本教諭であった。当時はブルー・ス・リー の影響で空手ブームであった事が幸いし、創立して翌年には部に昇格し、入部者も増えた。天才的な鈴木芳音が個人形の部で県高校大会で優勝し全国大会に出場し準決勝に進出した。翌年は広沢・石田・高橋が活躍し、部員がさらに増えた。春の県高校大会には大勢会場に現れたので、当時の高体連専門部長の猪俣先生は「今日は女子の大会と思った者もいるぞ」と言わせた。今思うと夢のような話である。インターハイ・関東大会に出場した事によって緑ヶ丘高校には新体操と空手道部という二枚看板が成立する。

 昭和57年には奥村・中・石川が団体戦形の県大会で優勝した。翌年は市村・遠藤・前薗で連続優勝し全国選抜大会に出場し、関東高校藤沢大会では第7位となる。この頃から団体形は緑ヶ丘と呼ばれるようになった。、いろんなイベントに参加を頼まれ、私学祭での横浜大通公園や同窓会などで演武する。その後は関東大会は毎年出場しておる。平成元年の福田.西坂・小川・山田や平成7年の青木・岡田、平成8年の深水・豊田等さらに平成9年の山口・山本、平成13年の豊田・村尾・西條などが活躍する。この頃正栄館の鈴木海経師範がコーチに来る。

 岡田のように文武両道で慶応大学に入り空手同好会で練習した者、さらに 卒業生して15年たって中泉や福田のように空手を練習している者もおる。深水・松尾・江原のように全日本空手道連盟の3段を修得した者もおり、福田真理や佐藤絵里香のように最近全空連の3段を修得した者もおる。

  平成17年度の部員の部長・藤原千尋、津止恵里香、野添ともえ、青木美樹、藤原ゆみ、小山美穂、和田愛子である。全員が高校入学して空手道を始めた者です。忍耐と努力で希望をもち今後の発展に望み、部員を増やし活気のある部としたい。その為にも空手道部部員は人格者となり日夜、練習に励んで行きます。

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